2009年7月 2日

第2の坂井利彰の育成とは。。。

本日、テニス専門誌の取材を受け、取材後に担当者の方から『第2の坂井利彰を育てて欲しい』との励ましの言葉を頂きました。結論としては、私が遅刻して1997年全豪オープン予選出場を逃したり、ラストインで2003年全豪オープン予選に出場したり、現役時代にボブ・ブレット氏から指導を受けた経験を後進の選手に伝えるべき、とのことでした。もう一度初心に戻らなくては。私の失敗経験をもっともっと伝えていかなくては。そう痛感させられました。いつもご指導ありがとうございます。


ウインブルドンから帰国後の伊達公子選手。主将の鎌田と練習をして頂きました。練習後にはしっかりとプロテイン補給。38歳にしてこのストイック精神。見習うべき点が多々あります。


2009年6月30日

石原宏高さんと

本日、銀行員時代の先輩であり、慶應テニス部の先輩でもある衆議院議員の石原宏高さんにお会いする機会がありました。解散総選挙が近く、お忙しい中にもかかわらず、色々とお話を頂きました。子供たちがもっとスポーツが出来る施設として、野球場やサッカー場などを都内に作りたいとの考えにとても共感しました。引き続き、陰ながら後輩として応援させて頂こうと思います。


慶應義塾大学テニスコートにて関東学生テニス連盟主催の下部校講習会が開催され、指導者としてサポートをさせて頂きました。関東リーグ4部校以下の大学から1名ずつ選手が代表として参加しました。最後のトレーニングまで目を輝かせて走り回ってくれて、終了後も質問の列が並んでくれて、こちらも大変やりがいがありました。今後も少しでも学生テニス界の底上げに貢献出来ればと思います。


2009年6月29日

松本賢からの便り

インド遠征中の大学3年の松本賢より連絡がありました。過酷なインドの環境で悪戦苦闘しています。結果は残念でしたが、もう1週間ありますので、インド2週目に期待したいと思います。今週から来週に向けて、いかに充実した練習が出来るかが鍵となります。尚、この2週間、インドフューチャーズが開催されているニューデリー・RKカンナスタジアムには薄暗いホテルの部屋が付いており、松本賢もそのホテルに泊まっています。


Shahbaaz Khan (IND) d. Ken Matsumoto (JPN) 6-3 6-2


以下、松本賢からの便りです。
インドの生活にも慣れてきて、水にも気をつけているので体調は大丈夫です。最初の数日は少し動くだけでも一杯一杯だったのですが、少しずつ慣れて動けるようになってきました。試合は全く自分のいいところが出せずに終わってしまいましたが、その後は色々な選手と練習できているので大変充実しています。竹内研人選手、韓国のナム選手とも会って一緒に練習しました。英語が話せるのは相当なアドバンテージなので、しっかり活かしていきたいと思います。


チームのムードメーカー元岡渉の腹筋は6ブロックに分かれています。


2009年6月28日

高校時代は全国トップとは無縁だった選手たちが。。。

昭和の森フューチャーズ国際大会が終わりました。男子主将の鎌田健太郎の結果は以下の通りでした。

シングルス
予選1R勝ち 6-4 , 5-7 , 6-4 塩田裕司(慶應義塾大学)
予選2R勝ち 6-7(5) , 6-4 , 7-6(5) 篠川智大(亜細亜大学)
予選F勝ち 4-6 , 7-6(7) , 4-0 リタイア 一藤木貴大(プロ)
本戦1R負け 4-6 , 2-6 守屋宏紀(プロ)

ダブルス
本選1R勝ち6-4 , 3-6 , 10-8 畠中・宮崎(プロ)
本選2R ● 4-6 , 6-3 , 9-11 ドグマックリー・井藤(プロ)


単複共に世界ランク入りまであとすこし。特にダブルスはあと2ポイントで世界ランク入りでした。男子チームは昨秋から日本一、ATPポイント獲得(世界ランク入り)を目標に定めてきました。当初は自分たちにはATPポイント獲得は遠すぎる目標ではないかと危惧もしていましたが、シングルスでは鎌田、井上、ダブルスでは小野・井上組、鎌田・加藤組があと1回勝てばという所まできました。


昨日の練習後、鎌田本人が集合で部員を前にして『俺らはATPまでもう直前だ。』と自信を持って話していました。鎌田は慶應義塾湘南藤沢高等部からの内部進学組でインターハイ1回戦負けレベルの選手です。それが今ではプロ選手を破り、ATPまであとほんの僅かのところまであがってきました。授業を挟みながらもとにかく朝から晩まで練習をします。軽井沢の会場でも昭和の森の会場でも負けた後に黙々と練習しているのは彼です。早慶戦後のこの数週間でもまた上達しています。


現在、三菱電機所属のプロとして活動している松永浩気も高校時代は全国大会を経験していない選手でしたが、大学4年時には全日本学生室内でシングルス優勝するまでに成長し、今では世界ランク入りを果たして、日本リーグ、全日本選手権でも勝てるようになってきました。


先週木曜日より、大学3年の松本賢がインドフューチャーズ国際大会に出場するためにインドに旅立ちました。国内の国際大会に出場する大学生はいますが、海外の国際大会に挑戦する大学生は彼1人だと思います。勇気ある行動を決断できる学生がいることを誇りに思います。プロだからこのレベルの努力でいいとか、大学生だからこのレベルの努力でいいとか、はないと思います。自分の限界を作らない人こそが、誰もが想像も出来ない結果を残せるのだと思います。


大学3年の会田翔もユニバーシアード・ベオグラード大会に日本代表として出発しました。大学生としては2大会連続の出場は彼1人です。今年前半に、京都チャレンジャー国際大会ではダブルスで準決勝、早稲田フューチャーズ国際大会ではダブルスで決勝と結果を残しています。大学生の中でも試合の中での駆け引きはずば抜けています。必ず何かを残して帰ってくると思います。


伊達公子選手、三橋淳選手など世界を舞台に活躍している選手が慶應の学生と練習をしてくれたり、色々な話をしてもらえるのは大きなアドバンテージだと思います。


衆議院議員の佐藤ゆかり先生が講演に来て下さいました。


試合後の鎌田・加藤組。加藤はプロ選手たちから『日本のツォンガ』と可愛がられています!


2009年6月23日

慶應チャレンジャーを経由してウインブルドン出場を果たしたルー

昭和の森フューチャーズ、鎌田は一藤木貴大選手に4-6、7-6(7)、4-0(対戦相手が途中棄権)で勝ち、見事予選通過を果たしました。ダブルスも鎌田・加藤組が主催者推薦枠を頂きました。明後日、シングルス本選1回戦では守屋宏紀(北日本物産)選手、ダブルスでは宮崎雅俊・畠中将人組と対戦予定です。


本日、開幕したウインブルドン、センターコートオープニングマッチで、男子ディフェンディングチャンピオンのロジャー・フェデラーと対戦したのは台湾のルー・エンスン。2007年の慶應チャレンジャーでプレーしていた選手です。慶應チャレンジャーを経由した選手がまた1人、ウインブルドン本選出場を果たし、センターコートに登場しました。大会主催者として大きな喜びです。


確かに慶應義塾大学蝮谷テニスコートでルーはプレーしていました!


以下、ルーに関して執筆したテニスクラシック2009年2月号の原稿です。ご参考まで。

今年の全豪オープン、台湾のルー・エンスンが世界トップ10選手のナルバンディアンから大金星を挙げて本選3回戦まで勝ち上がりました。昨年の全米オープンで錦織圭選手が本選ベスト16まで進出したことは記憶に新しいですが、今年26歳になる遅咲きのルーがグランドスラム大会で世界トップ10選手を破り、世界トップ60入りを果たしたプロセスから我々が学ぶべき点は数多くあります。私は2002年にルーと知り合いました。この6年間、コート内では選手としてコーチとして共に練習し、時には対戦相手として戦い、コート外では数多くの意見交換をしてきました。その中で感じたことをお伝えしたいと思います。

 2001年4月の石和フューチャーズ、私は予選決勝で当時世界ジュニアトップ10選手であったルーと対戦する予定でした。しかし、ルーは私の予想に反して日本選手に敗れてしまい、対戦は実現しませんでした。後で知ったのですが、負けたのは、その数ヶ月前にルーは父親を亡くしてテニスに対してモチベーションが下がっていたことが原因でした。ルーは幼少の頃から父親にマンツーマンでテニスを教わって世界ジュニアトップ10まで上りつめたこともあり、非常にショックを受けていました。ルーが17歳の時のことです。その翌年、2002年5月の福岡フューチャーズ、ルーは再びテニスに対するモチベーションを取り戻し、世界ランクを340位台まで上げてきていました。その時のことで最も印象に残っているのは、同じ台湾選手と共に誰よりも早く会場入りして、朝から晩までコートに立って練習をしていたことです。身体が壊れるのではないかと思うくらいに、ひたすら練習をしていました。父親のショックは完全に乗り越えて、大きく成長したルーがいました。翌月、中国サテライトで私は1ヶ月間、ルーと共に練習し、試合をし、夜は何度も食事に出掛けました。その時に、ルーに父親の死をどのように乗り越えたのか聞いてみました。その時の答えは『今は父のためにもグランドスラムに出ること。』でした。その目は光輝いていました。その当時、タイのスリチャパンが世界ランクを70位台まで上げており、アジア人で世界トップ100に入るにはスリチャパンの様な体格とビッグショットがないと厳しいとの意見が多かった時期で、私もルーが世界トップ60入りを果たすとは、その当時は夢にも思いませんでした。これがルーにとっての第1の転機です。

 2003年10月、世界ランクを200位まで上げていたルーが、ジャパンオープンの会場である有明コロシアムの選手ラウンジにて、シュトラーのコーチであるダーク・ハードフ氏と打ち合わせをしていました。そして、その年末からシーズンオフはドイツでシュトラーと共にトレーニングを積むようになります。当時、世界トップ10入りを果たしていたシュトラーとのトレーニングは非常に勉強になったようでした。2004年に会場にてルーと話をした際、シュトラーが厳しい坂道ダッシュトレーニングを何本も繰り返していたことを興奮して語っていました。世界トップ10選手がどのような練習をしてトレーニングをしているのか、直接ヒッティングパートナーとなってボールを打ち、日常生活で接している中で、多くのものを掴んでいったことは間違いありません。これがルーにとって第2の転機になりました。

 そして、2004年5月にルーは念願の世界トップ100入りを果たします。ウインブルドンにも初出場し、本選1回戦を突破して、とうとう父親の夢を叶えることが実現しました。日本リーグにソニーとして参戦したのもこの年からになります。台湾では野球が最も人気があるスポーツであり、世界トップ100入りしてもスポンサーがなかなか付かないというのが現状でした。少しでもお金を稼げるところを探し、日本リーグにも参戦することとなったのです。10代で早くして世界トップ100入りする錦織圭選手のような早熟タイプは、活躍を期待されて欧米で開催されるグランプリシリーズ本選で主催者推薦枠をもらい、ツアー転戦の費用はマネジメント会社が負担し、コーチもマンツーマンで雇うことが出来、その中で確実に結果を残して世界トップへの階段を駆け上がっていきます。一方では、晩成タイプであるルーのような選手はグランプリシリーズ本選に出る為には、世界ランクを上げて予選を勝ち上がらなくてはならず、スポンサーが付きにくく、少ない予算の中で過酷な環境で開催されるアジアのチャレンジャーシリーズを転戦し続けていきます。インドの奥地、ウズベキスタンの片田舎、メキシコの高地等々、ルーはあらゆる過酷なチャンレジャーシリーズを戦場としていきました。外人コーチを1人で雇うことは金銭的に難しく、タイのウドムチョクと共にコーチをシェアしながらツアー転戦していました。ルーマニアのラドレスク、チェコのジャン、韓国のチョイとコーチは何度も変わりました。ルーはチャレンジャーシリーズを中心にしてポイントを稼いでいた為、世界ランク90位までランクを上げては世界ランク100位以下に下がる、という循環を繰り返していました。3度も世界トップ100入りを果たしながら常に定着出来ないジレンマを持っている中、第3の転機が訪れます。2008年の北京五輪1回戦、ルーは世界ランク6位のマレーをストレートで下す大金星を挙げました。何度も世界トップ100の壁に跳ね返されながらも、粘り強く頑張ってきた努力が報われた瞬間でもありました。その背景には、2008年全仏ジュニアで母国のヤンが台湾選手として初めてグランドスラムジュニアを制したこともあります。25歳となりもう若くない年齢となり、母国の後輩が押し寄せてくるプレッシャー。それがルーを押し上げたのは間違いありません。日本の添田豪選手も錦織圭選手の出現が良いプレッシャーとなり、自らのテニスに良い影響を与えています。

 これまでのルーの戦歴を振り返ると、そこには国内から世界トップ100入りするモデルケースがたくさん隠されています。私は16歳から22歳までの世界基準に即したサポートこそが必要と考えています。今年はアジア選手の活躍からも目が離せません。